青空の下で

かけがえのない今日という日々

9月22日神戸でハイカラショー🌈 観に来て欲しい✨

f:id:kitaken1996:20200908231250j:image

 

今回の公演は照明担当。
今までにないほど、関われてる実感が強い。今までももちろん参加してきたけれど、向き合い方が変わってきた。
表現者として確実にステップアップ出来ている。すごく喜ばしいこと。
出演の機会も頂いております。モノにしたい。
どうなるにしても愛に間違いはない。
今、よく喜ばしく燃えております。
僕という人を知ってほしい。
そして僕と関わっている仲間を知ってほしい。
共犯者になってほしい。
共に燃えましょう。
観に来てください。難しければライブ配信を見てください。
一緒に幸せになりましょう。

 

ショウタイムHP

https://this-is-showtime.jimdofree.com

 

旅路

全身の血液がどくどくと熱して、炎上する。数拍前に知らなかった感覚、世界の色が全く違う。そのような体験があるように僕は想っている。
実際には少しずつ確実に形容は変化して、知らず知らず僕は全く違うものになるって怖い話なんだよ。
一瞬で変わる世界観で見つめればそれは本当に底の浅い感知だけれど、達成されなかったことを告げる言葉の一つ一つがいつまでも僕の頭で轟いている。
世の中案外スッキリしてる。どれだけ嫌や無理やって思っても良いものは良くて、駄目なものは駄目。事実をふまえて争うことはできるが、事実を揺るがすことはできない。
僕はそのことに苦しんだ。認めたくなくても変える力がなかった。
僕は僕らしくあるために、僕は変える力を身につけていくことが使命だ。
その途中で出逢う障害物と対話していくこと。本当に諦めたり、違うなって思わない限り続けること。
僕自身の力が足りなくて、発せられる誰かの残念な君だねって言葉。今の僕が力なき幼子ではなく思慮のある大人として向き合い、改善して認められるようになるにはどうすればいいのか。幼子のように泣き喚いて、暴れて改革されるならばいうべきもない。僕の中にはそのようにして解決できたならば楽だったのにという気持ちがある。しかし、そんなことでは変わらない。人は明日へと進んでいかなければならない。進んでいきたい。
出来るのであればただ空をぼーと眺めて、ぼんやりと暮らせれば一番いい。しかしそれではどうやら僕が今まで生きてきた中で抱えてきた問題に対する答えは導き出せないようなのだ。最初から簡単に答えを導ける才に恵まれていたならば。其れは根本的な原始の願い。叶わないからこそ、今の僕が代わりに動くのだ。
文章の流れでこの瞬間の絶対的な導きで書くわけではないので、今後同じことを書く場合、大まかな位置は同じでも詳細は大きく違うことになりそうだが、敢えて書いておく。私は今、表現する場所にいる大きな理由は僕という生命に宿る感情が世界に知られることないまま、費やし滅して欲しくない。僕という才能を世界という大きく掴みどころのない河に一石投じ、特異なメロディーを有した河として目を麗して感じたいんだ(一体なにを書いているのか自分でもわからない)。
船が出る前、出るとき、航海中、航海後。そのときによって感慨は違う。今の僕は少しずつ旅への準備を終えて旅立とうする船員の一人だ。自分はこれから先色々と思い、感じるだろう。僕は思っている以上も以下とも出逢うだろう。そのために粛々と生きている。

 

 

〈今日の一枚〉

f:id:kitaken1996:20200906192654j:image

一週間前の美しい空。

美的なものは尖りすぎず錆びすぎず程よく僕の前に現れた証拠。
世界の色がみんなにとってより良いものに染まったとき、それぞれの胸の中で何が咲いているんだろうか。
そして、今目の前の世界は本当のところ、自分の胸の中でどのように咲いてきたのか。
本当のところはいつだってわからない。
よりよく、ほどよく理解できたならば其れが一番いいな。
美しく、やさしく、心地よく。
今までだって願おうと思ったじゃないか。

バトンを繋いだ

ぼーと何も考えない。
自分の仕事を確実に成し遂げる。
いつだって互いの理解不足のまま、未然に終わっていく、そのようなカワイソな話続けたくないし。
走るなら、何処までも走り続けないと。
僕が未然なら、完遂するために心も身体も尽くしていきたい。
言葉だけではいけない。行動も果たしていく。
分からないことはわからないままでいい。わかるときにわかって、そのときにひどく感じるしかないのだ。
書きたい詩がいくつかたまっているけれど、なかなか気が進まない。
優先される活動に遮られている。
何かあるから出来ないんだって、すごく幼い考え方。世の中は遮断物でありふれているのだから、其れを踏まえて出来たものが世に溢れるんだから。
今日は特別なことがないような一日だったかな。ただ明日へバトンを繋いだのは確実です。
何もない日をどのように過ごしたか。
其れがその人の職になると僕は考えています。
僕は何をしたのか。してきたのか。
自分の胸の中で抱えておきましょう(笑)。
最近、愛することを感じている。
劇団は人の悪いこと所は目を瞑り、良いところを伸ばしていく場所だと先輩は話しておりました。
僕は常日頃、人に対して不真面目であったり、不誠実な態度を取っているなと感じ、ひどく愚かしい自分にもやっとしたり。
変化は欺瞞か。道徳の破壊か。今の僕にはわからない。
ただ不真面目を続けたくない。一つ一つ向き合いたい。其れが今の僕が思う付き合い方。
人の良いところに目を向けられてる、以前より。そう思ってきました。

 

〈今日の一枚〉

f:id:kitaken1996:20200904215709j:image

当たり前の場所は時と場合により、一瞬で失われる。

だからって失われることに怯えて、保全に傾きすぎると、本当に大切だった気持ちはなくなっていく。

何を大切にしたいのか人によって違うけれど、僕はこの瞬間の接点を愛したい。

僕が変容できなかった今はそのままに時間に流れていく。

変容出来るならば、新しい契りを結べる。

どんどん変わっていきたいな。

植物を愛すること

気高き花は一輪で咲くことはない。土や陽や水が無ければ花はいない。
花がなければ人もいないだろう。だから前提とするのもおかしい話ではあるが、花がないような環境で人が居たならば世界の潤い、詩は存在していないなんとも心苦しい社会が存在したのであろうか。
劇団に所属して3年ほど。その間に沢山の人と出逢い、別れてきた。
今、なんだかやさしく穏やかながら、新しい清い風が吹き始めている。其れは、風が吹くために必要な色々なものが備わってきた証。
其れはやさしさ。おもいやり。気遣い。
やさしさが好きだ。大好きだ。

 

〈今日の一枚〉

f:id:kitaken1996:20200904010447j:image

 

思いやりを大切にする人。

彼の思いやりが色々な物質にやさしく雫となって伝わっている。

植物が好きな彼らしく、それはあまり目立つものではない。

そういう質だからこそ、伝わる愛もあるのだ。

世界は美しいかもしれない。

そう思わせる世界が少しずつ切り拓かれている。

 

歌えるようになりたい

今日は歌と楽器の稽古でした。
今回音痴な僕に歌を歌える機会が巡ってきました。今まで何度もそのような機会が巡ってきましたが全てを棒にする残念な具合で正直なところ、開き直ってやるほかないよなって頑張っております。劇団の演出家先生は常日頃歌えなければ役者として不十分という事をおっしゃっております。その観点に従えば当分の間私は役者として不十分。ならば早く歌えるように努めていきたいのです。
今回僕の立場は照明ですので、最終的に本番で披露することが出来るかわかりませんが、機会が巡ってきたならばモノにしたい。歌いたい。
と言いながら実際のところ、私は賑やかしに落ち着きそうです。普通に歌いたい気持ちもありますが、そういうこともしたい気持ちもあり、複雑なところなんです(笑)。なんていうか現状と反対のことをしたいって気持ちが僕の心にあって、普通に歌ってるなら、変なことをしたい。変なことをしているなら、普通に歌いたい。そんなむむむな現状を僕は抱えているわけですね(なんの話だ)。
僕はあまり舞台に立つ機会がないので、普通に歌ったり張り切るだけでなかなか精一杯という新鮮な気持ちを味わっています。ただ歌うだけで足が震えたり、歌う為に懸命で全く周りが見えていない。なんて視野が狭いんだろうと反省してしまいます。
自分のやりたいことも周りに話せてもなかなかやることに躊躇したり、僕は未だ表現者ではないんだなって理解してしまいます。僕の想いを人に伝えていく。そして、将来的に叡智を施せるようになるならば。それが僕の夢です。今日は舞台の上でも可能なのだなと片鱗に触れました。以前はこの舞台で僕の気持ちを伝えることは難しいのかなと少し諦め気味でしたが、そんなことはないってわかりました。だから少しでもぼくという才能を愛し、伝えていく努力を怠らないぞって思います。まだまだ技術と志が足りていない。僕は僕という才能を使い切りたい。その上で、色々なことをしていきたい。

 

〈今日の一枚〉

f:id:kitaken1996:20200903003858j:image

豪快という言葉、大切にしています。自分にはなくて、だからこそ大切に見つめて成し遂げたいって。

孤独だから、与えられる【宇多田ヒカル for you】

聴くだけで愛おしく寂しさが慰められる曲がある。
孤独で強靭で光り輝く様に私の愛は如何に貧弱か思い知らされる。
自分一人で生きていけるなら生きていくけれどそんなことできない。いつだって誰かがいたから私は生きていられた。
人と一緒に居られるから孤独を感じられる。奇縁で結ばれた私が知るあなただからこそ、同じ孤独を与えたい。愛の表現を孤独で表現する。それは寂しく苦しいことなのに、それでも愛を見捨てない尊さが強く胸を打つのだ。

物語は穏やかに生活に潤いを与える[レストー夫人・漫画・感想]

今日は僕の好きな漫画、レストー夫人について書きます。
レストー夫人は一学年一クラスがある一定期間同じ台本の芝居に取り組む伝統のある学校の一クラスのお芝居を進行する中で起こる人々の取り組みについて書いたお話です。
学校という閉鎖的で色々な人々が集まる環境。美しい子もいればかわいい子もいる。不思議な子もいれば地味な子もいる。そういう子たちが芝居に取り組む中で其々の心が静かに浮かび上がっていく。
物語はコマを読み進めるごとに展開されていくが、進行自体に大きな煽動はないが、不思議と読み進めるとなんだか心に穏やかに会話の内容が積もっていく気がする。それを私は何と名付けることができないが、できないまま穏やかに胸中に預けておくことが生きていくことで大切のように思う。
物語の中の人物のような女の子、志野は毎年不思議に続いていく伝統行事と物語そのものであるように育たれた自分自身を関連づけて、この世界の様々なものに物語は必要なのでしょうと話す。彼女たちは決して世界の真相を語ろうと努めないが、その態度がなお一層大切なものに対するやさしさを感じる。
4つの大きなエピソードが語られる。彼女たちは芝居に関わり、離れる。何故か毎年行われ続けたこの行事。別になくても問題はなかっただろう。しかし彼らは芝居という虚構を挟むことによって言葉にすることができなかった表現を手に入れて、以前より生きやすくなったように見受けられる。物語は必要と胸に響く。つまり、物語は人生の実際的な要素ではないが、人生の実際的な要素に挟むことによって生きることの大いなる処方箋になりうるということだ。
うまく歩けなかった川名さんは、子供の頃から見えていた不思議なめもりを劇を通してうまく扱えるようになった。その結果、めもりは姿を消したが、彼女は自分自身とうまく生きれるようになった。志野は自分がただキメラのような異端であるだけでなく、普通の変わった女の子であることに気づけた。一人で物語に浸りつづける彼女の実際的な現実に挿入された新しい物語はたしかに必要だった。
気づかなくてもいいかもしれない。知らなくてもいいかもしれない。しかし、芝居を通じて登場人物は新たなステップを踏むことが出来た。そのことこそが生きる上で大切なことであり、教養と呼ばれるものではないだろうか。気づけないまま、知らないまま人生を送ることは時として心が無性に寂しいと露出されるものだから。
一見目を通すだけだと当たり障りもない実務的な力を発揮しない凡庸な漫画だと錯覚するが、語ろうしない部分があることによって穏やかな意味を表現する力はまるで苔のむす石のように尊い。物語という、表現との穏やかで確実な関係は凄く良いと呼びたいものだ。
この漫画、作者がもっと世に穏やかに表出していくことを僕は切に願っている。