青空の下で

かけがえのない今日という日々

物語は穏やかに生活に潤いを与える[レストー夫人・漫画・感想]

今日は僕の好きな漫画、レストー夫人について書きます。
レストー夫人は一学年一クラスがある一定期間同じ台本の芝居に取り組む伝統のある学校の一クラスのお芝居を進行する中で起こる人々の取り組みについて書いたお話です。
学校という閉鎖的で色々な人々が集まる環境。美しい子もいればかわいい子もいる。不思議な子もいれば地味な子もいる。そういう子たちが芝居に取り組む中で其々の心が静かに浮かび上がっていく。
物語はコマを読み進めるごとに展開されていくが、進行自体に大きな煽動はないが、不思議と読み進めるとなんだか心に穏やかに会話の内容が積もっていく気がする。それを私は何と名付けることができないが、できないまま穏やかに胸中に預けておくことが生きていくことで大切のように思う。
物語の中の人物のような女の子、志野は毎年不思議に続いていく伝統行事と物語そのものであるように育たれた自分自身を関連づけて、この世界の様々なものに物語は必要なのでしょうと話す。彼女たちは決して世界の真相を語ろうと努めないが、その態度がなお一層大切なものに対するやさしさを感じる。
4つの大きなエピソードが語られる。彼女たちは芝居に関わり、離れる。何故か毎年行われ続けたこの行事。別になくても問題はなかっただろう。しかし彼らは芝居という虚構を挟むことによって言葉にすることができなかった表現を手に入れて、以前より生きやすくなったように見受けられる。物語は必要と胸に響く。つまり、物語は人生の実際的な要素ではないが、人生の実際的な要素に挟むことによって生きることの大いなる処方箋になりうるということだ。
うまく歩けなかった川名さんは、子供の頃から見えていた不思議なめもりを劇を通してうまく扱えるようになった。その結果、めもりは姿を消したが、彼女は自分自身とうまく生きれるようになった。志野は自分がただキメラのような異端であるだけでなく、普通の変わった女の子であることに気づけた。一人で物語に浸りつづける彼女の実際的な現実に挿入された新しい物語はたしかに必要だった。
気づかなくてもいいかもしれない。知らなくてもいいかもしれない。しかし、芝居を通じて登場人物は新たなステップを踏むことが出来た。そのことこそが生きる上で大切なことであり、教養と呼ばれるものではないだろうか。気づけないまま、知らないまま人生を送ることは時として心が無性に寂しいと露出されるものだから。
一見目を通すだけだと当たり障りもない実務的な力を発揮しない凡庸な漫画だと錯覚するが、語ろうしない部分があることによって穏やかな意味を表現する力はまるで苔のむす石のように尊い。物語という、表現との穏やかで確実な関係は凄く良いと呼びたいものだ。
この漫画、作者がもっと世に穏やかに表出していくことを僕は切に願っている。