青空の下で

かけがえのない今日という日々

僕という世界線に於いて浮上する美的感覚を通じての拘泥[アニメ・シュタインズゲートの感想]

https://youtu.be/tZSSiq1GLhw

 

二、三週間前シュタインズゲートというアニメを観ました。
どういうアニメか掻い摘んでいうと、受け入れがたい運命に抗いたった一つの冴えた世界線へ進もうとする物語的な要素の強いアニメです。
シュタインズゲートは過去改変、時間旅行の要素がありそれによって何度も同じ世界線を繰り返し、変化させていきます。
僕の生きている世界は時間はたゆたゆと一つの世界線で進み続けています。僕は凄く物語に傾注するタチなのでまるで過去改変も時間旅行も行える世界観があるようで興奮してしますが、勿論そういうことは僕の周りで僕自身が感知する限りでは何一つ実現していないようで少し寂しいです(笑)。
ただ存在しないのは事実にしても、シュタインズゲートと僕と接続させて、世界に対する視線に新しい意味を加えることができます。例えば、シュタインズゲートの主人公である岡部倫太郎、彼が一話25分前後の放送で形成してきた世界観を味わった僕は接続して得た感覚を現実に照らし合わせて、世界を切り拓くヒントとして活用します。
物語は美しい。物語の性質によって変化はしますが、切り拓くことにもがき、勝利した世界は真に美的である。僕は人生もまた美的でなければと思っています。人生は物語ほど単純ではない。美しくない。そのような言葉を各所で耳にしてきました。物語のように生きようと思っている僕は、その精神を推進するならば必ず今後聞くことになるでしょう。そのような意見に対し半ば反抗するような行動を取ろうとする僕が発言するのもおかしいですが、僕はその意見を正しいと思っています。物語のように美しく魅力的に輝くことは必然的に存在するでしょうが、それを自らの手で自己満足のように引き寄せることはできない。世界の巡り合わせの中で当然のように定められる運命が、僕という幸も不幸も必然的に打ち込んでいくだけ。だから、ある種自分が巡っている人生に対して瞬間的に物語のような人生を送りたいという願望は浅はかなところがある。勝手に美しくあろうとして、魅力的にあろうとして、その期待に裏切られて傷つくのは馬鹿ではなかろうかと。
ただ僕は自分自身の気づきに対し経験すべき事象としなくてもいい事象があって、今回の人生は美的であるべきだという意思を表明していこうという考えはその更に先にある僕が辿り着きたい真の意思表明を実現させるために必要な事柄なのです。
何を言いたいかというと、僕には真に信じた思想や哲学があってただそれを今発言できる能力や信念が薄いからなんだか程度の低い発言と行動がどうしても多くなっていますが、これからはそのような自分を更新して大きく自身の信念と意思で世界と接する自分と生きていきたい。その願いから来る現時点での底の浅い考えが僕自身に相応しい立ち位置に収まるようにするための修練ということなのです。
さて今何を真に言いたかったのか。そのことにもう一度立ち返ろうと思います。
僕がシュタインズゲートを通して思ったこと。僕は自分自身の世界線の続きをみたい。僕の運命の続きをみたい。このことについて考えを深めていきたいと思います。
シュタインズゲートの価値観を通して、僕は自分自身に纏わる世界についてこのように考えられるようになりました。
(世界はそれぞれ好きなように生きている。僕もまた。僕は僕の感性で世界を定義づけて色々な意見や人生と接しながらこの世界が何者であるのか少しずつ定義の更新と是正を繰り返して死へと至る時間を経ている。世界は個人をある視点では自分勝手に生きるなと話す。それは様々な観点において正しく間違いである。そのような前提条件の中で僕は僕のわがままを胸にもったまま生きている。僕のわがままを通して、世界に対して不満を見つけてしまう。そしてそれを武器に対象と干渉の有無に関わらず、世界は簡単に進行してしまう。そして僕の胸のわだかまりの続きを世界は答えを僕に投げかけることもあればないこともある。世界は色々なものでできており、僕の中に感じたわだかまりは僕という肉体で感知できる拘りでしかないから、他者が感じた拘りを現時点における密度の濃いこだわりとなってしまったから、特別な対象物はその拘りへと足を進めてしまうわけで。
最近の僕はそのようなことに気づいたのです。僕は僕の拘りをある種世界にとって唯一の美しい問いのように誤解を覚えながらも絶対的にそれは間違いだということにも気づいていて、だからこそどのように特別な対象物に対して接していくべきか答えを出せず、逡巡と不健康に自分の中で誤り続けていました。しかしようやく区別化できるようになった。僕は僕というこだわりを持っており、それは僕だけ、僕が感知した部分に対して適応される僕の世界観であり、世界はまたそれぞれの肉体的制約によりそれぞれの世界観で世界と干渉している。ただそれだけのことであるから、私は私の感性に従って周りと干渉すればいいだけということに気づきました。
わがままや自分自身の若さ、未熟さはそれをもっている限り熟そうという熱意がなければいつまでも抱え続け、いずれ腐れさせたり、枯れさせたりする。僕はそれを僕自身に許したくない。どうせ生きることを選んだならば、生きていくように少しずつ自分を仕向けたいのです。
僕は特別な対象物に対して僕自身の感性の続きをみたい。僕という対象物に対して応えてほしいのです。僕に気づいて、僕と対話して、駆け上がってほしい。それが現時点での僕の夢にほど近い文言ではなかろうかと僕は確信しています。
人間は自らを主人公たらしめないといけません。そのものの心と身体に眠る活力を行使することがその人に与えられた使命です。僕はその使命を全うしたい。
僕自身が自身の義務を果たさないままに世界の命運が見定まって適当な位置に対象物が命運を定めていく。そのような悲劇を繰り返したくない。僕の速度の遅さがそのような悲劇を巻き起こすのであれば、少しずつ密度を濃くして、速度を上げて対応できるようになりたい。僕自身の理想を成し遂げるまでに達成できなかった夢の形状を忘れないまま漂わせて生きていきたい。
僕は素晴らしいほどに僕が見つけた夢の続きをみたい。
僕の観測してきた範囲で、ある一面において表現者であろうとするものは個人という特別を湯水を使い果たす如く信仰しています。それは生物という完全なる総てが個人というものと程遠いものだからかもしれません。
個人はすべての中になり、すべては個人の中にある。相反するようで、実際は含有された総てを巧く自分の中で処理して区別して結果、真の意味で個人という存在の能力を発揮できるような自分であろうと思います。
最後に、シュタインズゲートという作品は素晴らしい作品であること。凡百の作品ならば閉じるポイントで収まらず、更に次元を高めて表現しようという心意気。僕も世界に対してもっと真剣に考えよう。移り変わりする自分勝手で始まった世界に対する自分自身の責任と拘り。沼に足を突っ込む気力の人間ならば、そのような格の人間らしく足掻き結果として沼に引きずりこまれても足掻き個人の美醜観をいつまでも持ち続け、たった一つの美的な素晴らしい拘りを結果として世界に落石させること。私はどのような人間か。過去や未来や今にどのように発言されようとも僕という個人の拘りに固執する愚かなる善人である。凡百な凡人らしく必死に生きる。個人の人生に定められた宿命を懸命に生きる。そのような心意気に数多の人間が感銘を受けるからこそ、シュタインズゲートという作品は人の趣味の範囲を緩やかに越えて、僕という人間にも届き震わせるのです。だから震えた僕は僕なりの立場でシュタインズゲートという結果に対する返答をこれから実現させていきたいと願っています。
僕は僕という問題の答えを出し、結果の先に新しい世界をつくりたい。もっともっと僕にとって相応しいと感知した世界に対する意識を自然と発することのできるような立場へと早くなりたい。そう願っています。