青空の下で

かけがえのない今日という日々

わがまま

悲しいわけではない。僕は泣けない人間。物心ついたときから数えるほどしか泣けなかった。涙を流せないっていうことはそれほど悲しみが少なかったからとか人は言うけれど、実際はそれだけ物事に対して踏み込んでこなかっただけだ。
友人や仲間が離れていくことに対してもそれほど感傷的にはなれない。人は離れていくものだし、僕もまたそういう人間だ。
しかし、何か大切なものを受け取った人間に対しても同じような態度をとっていいものか。なにか煌めきを覚えた君がいなくなり、挨拶もできず、もう二度と会おうとしなければ会わずに済んでしまう。それで、まるでなにもなかったように、離れることに対してまるで過去も現在も未来も貶すかのように聞こえてくる僕の感性は何なのであろうか。どのように今この場所を受け止めているんだろうか。
いつだって、自分自身の築いてきたこの感性が憎くて堪らない。時の流れに乱されて、今このときに全てを施せない僕自身の生き方を恨んでしまう。どれほどにぼーと生きてきたのか。そう書いていても僕はまだまだぼーと生きてしまうことを分かっているから、腹が立ってしまうのだ。
何様のつもりなのか。どのようになりたいのか。いつだって僕は僕自身を棚上げにした思想に浸かっている。
これまでもこれからもどのようになっていくのかわからない。でも僕は、やはりこれから先関わっていくであろう人間に後ろめたさを持つのは嫌だ。僕は今、僕が納得できるものを掴んできたと背中で語れるように生きたいのだ。どうしようもないから、今ここにいるよ。それをはっきりと、なんの恥じらいもなく、普通に言いたい。それが僕の存在証明。
関わってきた人だって、夫々を生きてきた。これからも生きていく。だから、まるでボタンでくるりと留めることを言葉にしちまうのは不粋だ。ボタンは止まっていようがいまないが生きていく。問題は、輝きを放って生きていくかどうか。それを選ぶのも本人次第。それに僕だって、いつまでも同じ思想を掲げているかもわかんない。
それでも僕が今煌めきを欲しているなら、君だって煌めいてほしいと願うのは我儘なんだろうな。そうだろう。それでも、今の本当のように誤解しながら、言葉で吐き出してしまう。
いつだって本当のことばかり言えたらいいけれど、言えないことの方がむしろ多いんやろうな。嘘と本当が入れ混じりながら、苦労して失敗して、壁にぶつかって、確かな言葉を手に入れていくんやろうな。
たまらない。なにかを欲してたまらない。そのくせ案外てきとうで、面倒臭がりなのが滑稽だ。そうしていつまでも生きていき、死ぬんやろうな。